こんばんは。国語科の緒方です。
この時期、中3の国語で式子内親王の歌を教えています。彼女は活動の記録が極めて少なく、現存する作品も400首に満たないという謎の歌人です。彼女の作った歌とか彼女がどんな人生をおくったのかがだんだん気になってきて、今年は「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」という歌にある「玉の緒」について調べてみますと、関連事項に「緒絶」というのがあって、それがたいへん興味深いものでしたので「玉の緒」と併せて備忘録代わりにここにまとめてみます。少々長くなりますが、興味のある方はご覧ください。
「玉の緒」(命)と「緒絶〈おだえ〉」(玉の緒が絶えた=命が絶えた)
◆“緒絶(おだえ)”の由来とされる伝承があります。嵯峨天皇の皇子が東国征伐のために陸奥国へ赴いたのですが、その恋人であった白玉姫は余りの恋しさに皇子の後を追うように陸奥へ向かいました。ところがこの地に辿り着いてみても、皇子の行方はいっこうに掴めません。意気消沈した姫はそのまま川に身投げをして亡くなってしまいました。土地の者は、姫の悲恋を哀れんで“姫が命(命=玉の緒)を絶った川”という意味で緒絶川(おだえがわ)と呼ぶようになりました。そして、その川にかかる橋を緒絶橋(おだえばし)と呼ぶようになったのだそうです。
◆伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と藤原道雅との密通が発覚して、三条院の怒りに触れた道雅は勅勘を被った事件がありました。道雅はこのような歌を当子内親王に送っています。逢瀬を禁じられたころの、押すも引くもかなわぬ心の乱れを詠じた歌です。
*みちのくの 緒絶の橋や これならむ ふみみ踏まずみ 心まどはす(後拾遺集751)
《意味》
みちのくにある緒絶の橋とはこれのことだったのか、手紙をもらえたりもらえなかったり、その度に心をまどわせる…あなたとの繋がりが絶えてしまいはしないかと…いつ断ち切れてしまうかわからない橋を、踏んだり踏まなかったり、恐々と渡るようなものだ。
*今はただ 思ひ絶えなんとばかりを 人づてならで 言ふよしもがな(後拾遺集750)(百人一首63)
《意味》
今はもうあなたの事を私はあきらめます。私たちの恋は禁じられた恋でした。ただそれを、せめてあなたに会って直接に伝えたいのです。人づてではなく自分の口からあなたに伝えたかった…、あきらめましょうと。あきらめきれない私たちの恋を。
◆この歌が後拾遺集という勅撰和歌集に選ばれて「緒絶の橋」は有名な歌枕となり、「緒絶のはしを踏む」 が「実らぬ恋とわかっていて身を投じること」という意味で使われるようになったそうです。
◆藤原定家も「緒絶の橋」を詠んだ歌が多く残っています。
*白玉の 緒絶の橋の 名もつらし くだけて落つる 袖の涙に (拾遺愚草)
*しるべなき 緒絶の橋に ゆき迷ひ またいまさらの ものや思はむ(拾遺愚草)
*人心 緒絶の橋に たちかへり 木の葉ふりしく 秋の通ひ路(拾遺愚草)
*ことの音も 歎くははる 契とて 緒絶の橋に 中もたへにき(拾遺愚草)
*かくしらば 緒絶の橋の ふみまよひ 渡らでただに あらましものほ(拾遺愚草)
◆この他にも「緒絶の橋」を詠んだ歌がたくさんあります。
*妹背山 深き道をば 尋ねずて 緒絶の橋に ふみまどひける (源氏物語 藤袴)
*おもはずに 緒絶えの橋と なりぬれど なほ人しれず 恋わたるかな(藤原経家)
*ながらへむ 契りのほども 白玉の 緒絶の橋に かけて恋つつ (前大僧正賢俊)
*片糸の 緒絶の橋や 我が中に かけしばかりの 契りなるらむ(藤原長秀)
*逢う事は やがて緒絶の 橋柱 浮名をたつる はてぞ悲しき(民部卿資宣)
*うき中は あすの契りも 白玉の 緒絶の橋は よしやふみみじ(亀山院)
◆このような背景を考えると、藤原定家との密通のうわさのある式子内親王が詠んだ激しい恋愛の歌に、「玉の緒」や「絶えなば」という言葉が出てくるのは自然な流れを感じます。
*玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする(式子内親王)
(新古今集・恋一・1034)(百人一首89) (注)「詞書」は「忍ぶる恋」
《意味》
私の命など絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き永らえて、こらえて忍んでいる力が弱ってしまうと(私の心の中に秘めた恋心が表れ出てしまうようにでもなったら)困るから。
◆式子内親王は、後白河天皇の娘です。賀茂斎院として10歳から約10年間を賀茂神社で過ごします。斎院や斎宮という仕事は、天皇家の女性が神様にお仕えするという役目です。神様に仕えるからには身が清くなければならないので、恋愛、結婚はできません。式子内親王が病気を理由に賀茂神社の斎院を辞めたあと、藤原定家との密通のうわさが立ったため、定家の父親の藤原俊成(しゅんぜい)が二人を別れさせようと思い、息子の定家の家にやって来ました。すると、定家は留守で、部屋には式子内親王の自筆の、この歌が残されていました。この歌を読んだ俊成は二人の想いの真剣さを感じ、何も言わず帰ったという伝説があります。ちなみに式子内親王は藤原俊成の弟子でした。(実際にはこの歌は題詠であって、内親王自身の気持ちを詠ったものではないとされています。)
◆定家の日記『明月記』にはしばしば式子内親王に関する記事が登場しています。 特に死去の前月にはその詳細な病状が頻繁な見舞の記録と共に記されながら、亡くなったことについては一年後の命日まで一切触れないという思わせぶりな書き方がされています。これらのことから、両者の関係が相当に深いものであったと推定されます。
◆また式子内親王は、このような歌を遺してします。
*生きてよも 明日まで人は つらからじ この夕暮を とはば問へかし(新古今和歌集)
《意味》
明日まで私は生きていられないだろう。今日までで私の命は尽きようから、いくら無情なあの人(恋人)も明日までは辛い態度を続けられないだろう。明日まで私は生きていられないだろう。そんな私を知ったならば つれないあの方も少しは憐れんでくださるだろう。私がまだ生きながらえていた今日の夕暮れを「あの日のうちに訪ねておくのだった」と、どうぞ悔やんでほしいものだ。
◆式子内親王の詠んだこの恋歌は、百首歌として発表される以前に定家に贈ったものだといわれています。式子内親王は3種の百首歌を残していますが、最後に作ったのは1200年(正治2年)。後鳥羽院の求めに応じて作り、藤原定家に見せています。前年の1199年5月頃から体の具合を悪くしていましたが、百首歌を詠んだ後に病状が悪化して1201年(建仁元年)1月25日に53歳で亡くなりました。
この記事を書いた人
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担当科目:英語・国語
担当校:伊勢原校・成瀬校
理系が得意な私は医学部志望でしたが、小学校の教師になるために文系に転向して初等教育学科に進学。なぜか新聞社の内定をもらいましたが、選んだ道は塾講師。それから早30年。人生、何があるか分かりません。だから、若いうちは幅広く勉強することが大切だと思います。いろいろなことを吸収して、自分を磨きましょう。
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